内なる原子を打ち破って
個人の倫理観は重要でないことはなく、たとえ贅沢三昧して、楽でたやすい倫理観を持っていても、それは社会正義を目指す上での道しるべとなってくれる。真の意味で、それは心の原子を打ち破る必要がある場所である。
自殺についての私達の誤解
自殺の犠牲者となった愛する人は、今は喜びの中に、神の抱擁の中にいます。信仰上、私達が安心しているように、そこは全てが善で、全てのマナ−が申し分ないところなのです。
道徳上の孤独
孤独は私達の生活のまさに真ん中に横たわっています。孤独や落ち着きのなさや分離を感じることは、私達の生活の危機を経験しているということではありません。それは、心の中で燃える炎です。私達は安らかな存在ではなく、時折落ち着かなくなります。しかし、落ち着かない存在も、時折落ち着きを経験します。これは、私達存在のすべてのレベルにおいて真実です。それは、身体、心、魂、性的関心においてです。私達は永久に落ち着けず、何かに追われているようで、飢えて、何かを求め続けている生き物です。決して、他人と完全に結合しません。。
家庭内修道院
修道院制度の原則は時の試練を経たものであり、聖なる認可を受けたものであり、全く信頼できるものである。しかし、世の中にはそれとは違う種類の修道院というものがあり、違う方法で我々を慈悲深い人たちと調和させ、違う種類の修道院のベルがある。務めに応じることは修道院の祈りともなりうるし、何かを求めて差し出される手は修道院のベルとなりうる。また地位や権力を持たずに働くことによって、神との出会いが可能な修道院の中へと引き下がることになる。家庭も修道院となりうるのである。
友を作るための戒律
今から二千五百年以上も前、人はモーゼから十戒を授かった。それから何世紀が過ぎ、18世紀の啓蒙主義を経ても、いまだにその戒律の有効性と重要性に疑いを差しはさむ余地はない。しかしなんとかそれを実行しようと苦労している時に、再びモーゼが二枚の新たな石板を手にかの山から下りてきて、人が他人、神、人生、そして自分自身とよりよい関係を築くためのルールを説き明かしてくれたなら役に立つに違いない。その新たな十戒とはおそらく次のようなものになるであろう。
待降節:希望を現実へ
イエスの母、マリアはこのことを一番良くあらわしています。彼女は私たちに希望を示しています。彼女がその約束を信じているだけでなく、彼女は妊娠し、懐胎し、彼女自身の肉体を提供し、それを現実のものとするために出産の痛みを経験し、かよわい新しい生命を世界を救った力強い成人になるまで世話しました。そこに彼女は賞賛ではなく模倣を必要としています。
待降節:純潔空間の創造
純潔とは何でしょうか?それはまず第一に性行為の何か具体的なことではありません。それは一般に、すべての現実をどうやって経験するかということです。純潔になるためには、十分にまた完全に、他人や、自然や、神に敬意を表して生きることです。純潔は正式に次のように定義されます。純潔はわれわれの必要や要望や協議事項に応じて生活しますが、待つことのない短気さは恩恵を恩恵として、他人を他人として、神を神として受け取りません。明らかに、これはふさわしい尊敬ときちんと待つということ次第です。
涙の谷で嘆き悲しむ
「我々の人生は短いもので、哀しみと喜びがどの瞬間にも顔をつきあわせている。人生のどの瞬間にも必ずつきまとう種類の哀しみがある。曇りのない純粋な喜びなどなく、生きていく上のどんな幸せな瞬間でも、私達は哀しみの片鱗を感じるものであるらしい。どんな満足感にも、限界の存在を感じる。どの成功にも、嫉妬への恐れがある。すべての微笑みの後ろには、涙がある。
神と生命を見つめて
祈りによって神に現われてくれるのを願うのではなく、自分達が神に近づこうと思えばいい。人生の中に美や愛を見いだすのも、基本的に方法は同じである。神と同様に、それらはすぐ側にある。自分がそれに近づけるかどうかが鍵となる。
大きな分離 — 知恵からの活力
何度もいうようだが、私たちの世界を駆り立てるなまの活力(色彩、ウィット、美、健康、知性、エロティシズム)は、教会からではなくまったく別のところから得られるものである。だから、私達は知恵からあっさりと切り離されたエネルギッシュで色鮮やかな、また健康的、知的で美に満ちた生活を見かけることが多い。つまり、社会の一体化を保つもの、また意味、愛情、苦悩そして死についての疑問を対処するのに役立つものから切り離されているということである。
自殺について再び考える
中でも自殺で死ぬ多くの、いやほとんどの人が、その言葉の本当の意味においては、道徳的にせよなんにせよ自分の死に責任はなく、むしろガンや心臓病といったものではないが、ある病気の犠牲者であると私は述べた。自殺とは、このような理解において、今までずっとそう思われてきたような絶望の行為ではない。これが本当なら、その犠牲となった人々の永遠の救済について余計な心配をする必要がなくなる。