自殺について再び考える


ロン・ロルハイザー
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

二、三年前、私は自殺についていまだに誤解が多すぎるとあるコラムに投稿した。いろいろ書いたが、中でも自殺で死ぬ多くの、いやほとんどの人が、その言葉の本当の意味においては、道徳的にせよなんにせよ自分の死に責任はなく、むしろガンや心臓病といったものではないが、ある病気の犠牲者であると私は述べた。自殺とは、このような理解において、今までずっとそう思われてきたような絶望の行為ではない。これが本当なら、その犠牲となった人々の永遠の救済について余計な心配をする必要がなくなる。

 その記事に様々な反応が寄せられた。一方では同情的な手紙が、特に愛する者を自殺で失ったという人から多数届いた。反対に私の見解に対抗する人もたくさんいた。彼らは、「自殺は、自分のいのちを守り永続させるという人間の自然の性質を否定するものであり、」だから「自己への真の愛情にひどく矛盾するものである。」(教理問答2281)というカトリック教会の教理問答を引用たものだった。

 これにはどう反応したらいいのだろうか?カトリック教会の教理問答は、自殺について私が述べたことと矛盾するだろうか?自殺とは、常に「自己への真の愛情」に「ひどく矛盾するもの」なのだろうか?この質問に対する単純な回答はない。すべて「自殺」という言葉の定義によるからである。「自殺をする」とはどういう意味なのか?それは常に同じことを意味するのか、あるいは一つの同じ言い回しにおいてもまったく違った意味を持つものなのだろうか?

 そこで私は提案する。私たちが「自殺」と適切に呼べるものと、「自己を殺す」という言い方の方が適しているものとの間に区別をつければどうだろうか。何が違うのかって?前者(「自殺」)は、傷ついた敏感な人が混沌に圧倒されある病気の致命的な犠牲者になること。一方、後者(「自己を殺す」)の例としては、傲慢で病的なナルシストがそろって人間の存在の共同体に服従することを拒むことである。自分の手によって自己を殺す人は、みんながみんな同じ理由で死ぬのではまったくないのである。

 ある人のことを「自殺の犠牲者」と呼ぶことはできる。その呼び方は自然で適切であろう。「自殺」において、人は自分のいのちを自分の意思に反して奪われる。なぜこのようなことを言うのか?それは実際、あなたや私が知っている自殺の犠牲者の多くにこの表現がぴったり合うからである。その人たちは自分が選択したわけではない病にいのちを奪われた。彼らのいのちを終わらせた行為は、自由に選ばれたものではない。自殺は、彼らが自分に課したものというよりは、彼らが犠牲になったものという方が本当だろう。特にそれは、彼らの傲慢さ、強さまたはプライドからとられた行為ではない。私が個人的に知っていた自殺の犠牲者はみんな、エゴイスト、ナルシスト、強くて極端に誇り高い人と正反対で、物事の構造において控えめで途切れた場所にいることを完全に拒絶する人たちであった。私が遭遇してきたケースはどれも、「自殺」の犠牲者が、自分が敏感すぎ、深く傷つき、あまりに未熟で傷ついており、あるいは人生の苛酷さを吸収するのに必要な反発力が足りないことが明らかな原因として問題を抱えていた。そしてついには、彼らは自分を傷つける時以上に意欲的にある病に屈服してしまったのである。

 何年か前に自殺による犠牲者の葬儀で耳にした話を今でも覚えている。犠牲者は敏感すぎる若い男性で、病的なくらい控えめで、うつ病に苦しんでいた。葬儀をとりしきった司祭は、説教の中で、今回の自殺はこの男性自身の責任であるようなことを述べた。その後に行われた会では、ある男性が痛烈な一言を言っているのを小耳にはさんだ。「自分を殺すべき人はたくさんいても、そういう人たちは絶対にそんなことしないんだ!この男の子は私が知っている中で最も敏感な人だった。自殺なんて、最もするべきでない人だったのに!」この一言は大きな反響をよんだ。

 一方、「自己を殺す」というのは、「自殺」の犠牲となることとは違って、かなり異なるものである。それはヒトラーのような人間がいかに人生の最期をとげるかといったことである。ヒトラーはいかなる意味においても犠牲者ではなかった。どのように見ても、彼は自分自身を殺したのである。彼のケースやこれに似た場合において、問題となるのはその人が敏感すぎるとか、控えめすぎるとか、深く傷ついているとか、普通の生活を送るには臨床的にうつすぎるとかいったことではないのである(同時に、明らかに私たちは神のみが判断できる心をもった傷ついた人にかかわってはいるのであるが)。むしろ、その反対のことこそが真実であると思われる。自己を殺すことは、この場合において、勇気の行為であり、ルーキフェルがシェマの前で「私はおつかえいたしません!」と言ったように、誇り、知的な傲慢さ、病的なナルシズムなどに基づく行為である。

 自殺が、カトリック教会の教理問答において道徳的に不完全だと非難されるものに適合するのは、この「自己を殺す」場合においてのみである。

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