ありがちな混乱とその識別

McManaman, Doug (マックマナマン・ダグ)
許可を得て複製
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

哲学は、識別を行うことで、ともすれば混乱しがちな社会の解明に貢献する学問である。しかしながら、現代人はかつてない混乱に陥っているように思われる。以前より哲学を必要とする人が増えたのはこのためである。ただし、皮肉なことに、哲学科の多くがこの組織化された混乱の原因を作り、その固定化に加担している。人間の選択に影響を与える問題を解明するために、識別を行うという慣習に立ち戻る必要がある。これは自由を得るための必要条件である。混乱している人は自由を失っている。なぜなら、真理だけが我々を自由にするから。 (ヨハネによる福音書 八:32)

自由と気ままとの混同

 

ルソーは誤った解釈をしていたようだが、自由は勝手気ままに振舞うことではない。犬を放すと、喜んで駆け回る。しかし犬は自由な生物ではない。一方、自由は自己決定であり、自己を裁定する能力、あるいは自己を形成する能力である。このように、自由には知識が必要となる。知識が深まるほど、我々の自由は広がり、その結果、我々は自分の選択にさらに責任を負うことになる。我々は、犬や猫がその行動に責任を持つべきだとは考えていない。なぜなら、彼らは自己決定ができない動物だからである。彼らはただ本能に支配されているだけで、自分の行動を理解していない。したがって、動物は道徳的な生物とは言えない。

このように、自由は知識と深く関係していることから、自由は達成するものと言える。事実、自由は自分がしたいことをするのではなく、自分がすべきことを知り、それを行う能力を持つことなのである。要点を説明しよう。1日の食事として好きなものを選んでいる、例えば、朝食にドーナツ、昼食にドーナツ、夕食のドーナツを食べている少年と、スポーツ選手で栄養学の知識もあり、果物と野菜だけを食べて砂糖を全く口にしない少年の姉と、どちらがより自由か考えて欲しい。おそらく少年は、自分のほうが姉よりラッキーだと考えており、自由とは自分の好きなことをすることと考える人が多いことから、彼らもまた少年のほうが姉より自由を謳歌していると考えるだろう。しかし、真に自由なのは、姉だけである。少年はわがままを認められているだけで、自由なわけではない。姉は自分が何を食べるべきかわかっており、弟である少年は自分が何を食べているのかきちんと理解できていない。彼は、成人するまでに糖尿病になるだろう。ただし、それまでには幸運にも歯もなくなっているだろうが。反対に、姉のほうは自分の行動を理解しており、健康を維持するために何をすべきか判断する能力と節度を持っている。

繰り返しになるが、自由とは、自分がすべきことを理解し、自分がすべきことを行える能力を持っていることである。したがって、我々は、道徳的な生活について学べば学ぶほど、自身の内にある徳を培い、より大きな自由を得ることができる。自由は受けるものではなく、自分で達成するものなのである。

偏見と道徳的信条との混乱 

ウェブスターの辞書は、偏見を持つ人を「自分の意見、信条、仲間を頑なに信じ固執する人、偏見を持つことを「狭量で差別的であること」と定義している。「偏見を持つ人」の場合、彼の信条に対する執着は不合理でなければならない。言い換えると、その人物の執着心は頑ななものである必要がある。頑なとは「意見や目的に頑固に執着する」「正当な意見を頑固に認めないこと」を意味する。

プラトンは、意見は知識と無知の間に存在すると述べている。たとえば、我々は、物事の真実が確かでない場合に、その問題について意見を持つ。10×10が100であることは我々の意見ではないが、ロバート・スタンフィールドはすばらしい首相になるだろうというのは我々の意見である。それが真実かどうかは誰にもわからないが、スタンフィールドを知っている人は、事実をある程度認識しているだろう。裏付けデータのしっかりした意見もあれば、そうでない意見もある。偏見を持つ人は正当な議論を認めないことから、偏見は、合理性の反対、すなわち非合理と言える。

しかし、最近は「偏見を持つ人」という言葉がかなり乱用されている。たとえば、同性愛を擁護する活動家は、同性愛者に反対する人を「偏見を持つ人」としてあっさり遠ざけてしまう。しかしこれは、同性愛者に反対する人が、彼が反対している理由を明らかにしなかったり、それを裏付けるデータがなかったりした場合である。皮肉なことに、同性愛者を擁護する活動家の多くが正当な議論を頑なに拒んでおり、その結果、活動家自身が、彼らの行為に反対する人、すなわち彼らが「偏見を持つ人」というレッテルを貼っている人たちよりもさらに偏見を持っていることを証明する結果になっている。

我々がグループで複雑かつあいまいな問題、つまりその真実が明瞭でない問題について話し合っている場合、その人の意見の真実性が低いことを裏付ける意見がなければ、彼には意見を述べる権利がある。しかし、意見を述べる権利は、誰かが単なる意見ではなく、真の根拠や適切な理由に基づいた結論として主張を行うことで消滅する。

賛成と容認、容認と愛との混乱

 

偏見と道徳的信条との混乱に似た混乱として、賛成と容認、容認と愛との混乱があげられる。第一に、容認と賛成は同じではない。何かを容認するということは、それに賛成したということではなく、さらに大きな害悪を避けるためにそれを我慢するという意味になる。喫煙に反対しているだけなら、鼻をつまんで喫煙者の行為を我慢すればよい。つまり、容認とは、個人や大衆の行為を拒絶することではない。喫煙を容認する場合、公共の場所での喫煙を不適切な行動として判断したことになる。しかしそれは、より重大な事態、たとえば、禁止されたことで興奮した学生の集団が反抗するといった状況を回避するために、生徒の喫煙を容認したことになる。

自然法の倫理では、より大きな悪を回避するために悪を容認するかどうかという考えに基づいて、実質的な関与と形式的な関与の区別が行われる。道徳的に誤った選択に形式的に関与することは、決して正当化できるものではない。なぜなら、それは悪事が行われることを意図することであり、その容認、奨励、勧告、助言、相談によって悪事の遂行に関与することになるからである。たとえば、中絶について学生に助言することは、形式的に中絶に協力していることになる。こうした助言は、その学生が自分の子どもを殺すことを勧めたり、望んだりすることに値する。しかし、中絶における悪は、どのような結果を想定していたかに関わらず、育ちつつあるヒトのいのちを意図的に破壊することにある。

一方、実質的な協力は、時に正当化される場合もある。実質的な協力では、他者の悪行を勧めるのではなく、さらに深刻な悪を回避するために、その悪行を許す、あるいは容認することになる。実質的な協力は、二重効果の原則に基づいてのみ正当化することができる。二重効果の条件のひとつは、悪の影響を意図してはならず(さもなければ形式的な協力になる)、ただそれを容認することである。もうひとつの条件は、悪の影響を許しても、それを補うだけのよい効果が得られるということである。そうでなければ、悪の影響を許容したり容認したりすべきでない。なぜなら、それは不合理だからである。

重要なのは、容認が時に合理的になる点である。聖トマスは、さらに大きな悪、たとえば大勢が強姦されるリスクなどを回避するために、一時的に売春を容認する可能性について説いている(ST II II, Q. 10, a 11)。アウグスチヌスは、奴隷制度が間違いであることを理解していたが (Cf. City of God, XIX, 25), それを廃止する目処は持っていなかった。しかし、我々が許容したり容認したりすべきでないことは多数あり、それらを二重効果のもとで正当化することはできない。寛容が愛することと同じではないというのは、こうした理由からである。学校の特定の箇所で喫煙を認める校則を正当化することは可能かもしれないが、通常の状況において、マリファナの吸引を容認することは正当化されない。妻が状況によって夫の不快な癖を容認することは正しいと思われるが、通常の状態において、夫とその同僚との不倫関係を容認することは正当化されない。事実、献身的な人だけが寛容になり得るのである。F. F. Centoreは次のように記している。「矛盾する立場の排除について強硬な姿勢を見せる人は、容認するという選択肢をなくしている。彼らが最も陥りやすいのは無関心である。」したがって、道徳的に相対主義的な我々の文化は、容認するという選択肢を失っている。勘違いしてはならない。容認は無関心とは異なるのである。

「偏見を持つ人」と同じく「狭量な人」も、同性愛を擁護する活動家が、同性愛的なライフスタイルに反対する人に貼るレッテルのひとつになっている。しかし、道徳的な誤りだけが容認の対象となることから、「狭量」という言葉を使用することで、同性愛的なライフスタイルは道徳的に間違っているとみなされる。文化的な違いを容認するという表現が間違っているのはこうした理由からである。こうした違いは良いことであり、容認というのではなく、快く賞賛すべきなのである。同性愛活動家たちは、同性愛的なライフスタイルが道徳的に間違っていると言っているのではない。だからこそ、「容認」という言葉を使用し、実際には賛成しているのである。しかし、こうしたライフスタイルに賛成するには、我々は、少なくとも性の問題について道徳的に無関心、つまりは道徳について完全な相対主義者になる必要がある。また、道徳的無関心は愛情のある姿勢ではない。たとえば、イエスは道徳的に無関心ではなかった。新約聖書にはイエスが賛成していないことが多く記されている。このことから、我々は、イエスが「無関心」でなかったと論じることができる。たとえば、イエスはパリサイ人の偽善を受け入れてもいなければ、姦通で捕らえられた女性を許すことで姦通を容認しているわけでもない。反対に、その女性に対し、「これからは、もう罪を犯してはならない」と説いている (ヨハネによる福音書 八:11)。

イエスは、完全な愛を注いだという点で「狭量」であり、容認とは異なる愛にあふれていた。イエスがいかに寛容であったとしても、状況から、彼の寛容さが賛成を意味していないことは明らかである。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(マタイによる福音書 十七:17)。今日、多くの人が寛容なのは、慈悲深い広い心を持っているからではなく、徳に無関心で、好きなことをすることが自由であり、我々の最も基本的な権利は自由であること、そして最大の義務は他人の「自由」(自分の好きなことをしたい気持ち)を尊重することと信じているからである。しかし、自由が「自分のしたいことをする」のではないとしたら、自由である権利および他人の自由を尊重する義務は、まったく異なる意味を持つことになる。

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